少女マンガを語る上でこれを抜きには語れない24年組。萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、木原敏江、山岸涼子など、少女マンガ黄金期に活躍した作家たちを作品とともに紹介しています。

24年組と少女マンガ

少女マンガと24年組

「24年組」とは、昭和24年(1946年)ごろの生まれで、1970年代に少女マンガの革新を担った女性マンガ家たちを指す言葉。

24年組(にじゅうよねんぐみ)は、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家達の一群を指す。「花の24年組」とも呼ばれる。年齢や作風において彼女らの後輩に当たる女性漫画家達は「ポスト24年組」と呼ばれている。

24年組:昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った女性漫画家達の一群 作家:青池保子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子、樹村みのり、ささやななえこ、山田ミネコ、増山法恵 【24年組】 にじゅうよねんぐみ 昭和24年前後に生まれた少女マンガを大きく変革させた漫画家達を差す。花の24年組とも言う。漫画論などでは一般的に用いられている。 正確には同じアパート(大泉サロンと呼ばれている)に集っていた萩尾望都・竹宮惠子を中心に大島弓子・山岸凉子・木原敏江・樹村みのり・ささやななえ・山田ミネコ・増山法恵を差す。一条ゆかり・大和和紀・里中満智子・美内すずえと相対して扱われることが多い。 ちなみにポスト24年組と言われているのは、水樹和佳子・たらさわみち・伊藤愛子・坂田靖子・佐藤史生・花郁悠紀子の6人。 *関連語 【萩尾望都】・【竹宮惠子】・【大島弓子】・【山岸凉子】 【木原敏江】・【樹原みのり】・【ささやななえ】 【一条ゆかり】・【大和和紀】・【里中満智子】 ああ、山田ミネコだなぁ、という漫画だ。 山田ミネコは、いわゆる《花の24年組》と呼ばれる、戦後の少女マンガ革命期に注目された少女漫画家たちの一人。様々な雑誌・出版社を渡り歩きつつ、《最終戦争シリーズ》《パトロールシリーズ》等の大河SFファンタジーを描き続けて、根強いファン層を得た。 それまでの記号的な少女マンガの描写からよりリアルで洗練された絵と、より文学的なストーリーを用いて、それまで少女マンガでは描かれなかった、同性愛、近親姦、SF、収容所もの、などを描いた。 とりわけ、ジェンダー(社会・文化的な性別)と母と娘の愛憎関係の問題をえぐった作品がみられる。 今回はそこにスポットあてて解説してみよう。

竹宮惠子と萩尾望都を見出し、世に送り出した人物は編集者の山本順也であり、竹宮と萩尾が中心となって共同生活を送り、24年組が誕生するきっかけとなった場所が大泉サロンである。 1962年の『少女サンデー』休刊以来、小学館は講談社の『なかよし』や集英社の『りぼん』・『マーガレット』等に大きく遅れを取っていた。そこで新雑誌創刊の任を負った山本は1968年、『小学一年生』等の学年誌に掲載されていた少女向けの漫画を集めて、月刊誌『少女コミック』を創刊した。同誌は1970年に週刊化されたが、当時は多くの漫画家が出版社と専属契約をしており、山本は作家の確保に苦労していた。 その頃、手塚治虫より『COM』に作品を投稿していた竹宮を紹介される。当時の竹宮は親の希望により郷里の徳島県の大学に通い、学生運動に参加し、漫画を断っている時期もあった。そんな竹宮を山本は徳島まで赴き、「新しい事を始めたい」と説得した。竹宮は上京を決心し、友人であった萩尾と練馬区のアパートで共同生活を始める。そこに自然と漫画家を志す同年代の女性が集い、漫画について語り合ったり互いにアシスタントをしたりする場となった。これが後の「大泉サロン」である[1]。 その後、『なかよし』で描きたいSFを採用してもらえない時期にあった萩尾が、竹宮に伴われ原稿を山本の元へ持ち込んだ。山本は萩尾の漫画にも新しい衝撃を感じ、他社と専属契約を結んでいなかった事もあり『少女コミック』で自由に描かせた。また、同年代の大島弓子も執筆陣に加えた。 萩尾や竹宮、大島など(詳しくはメンバーの項参照)同年代の少女漫画家の自由な作風は、小中学生のみならず高校生や大学生、男性にまで受け入れられ、文芸評論家も高く評価した。 ■なぜ24年組/ポスト24年組がスゴイと言われるのか 24年組には、作風上の特徴がある。SF、ファンタジーや歴史ものも多く、現代を舞台にしない。むしろ、そこから現代社会のあり方自身に疑問を問いかけるような、実験的な設定を多く行っている。主人公が少年であることも多く、またほとんどの場合、異端児である。この少年という表象に関して、私は宮迫千鶴の言う、「『少女』のある時を描くために、間接話法ともいうべき回りくどい方法すなわち「少年」のフォルムを援用した」という説を採用している。つまり、見た目は少年だけど、中身は少女だったり、少なくとも少女が感情移入する対象として造られている、ということ。異端児という造形は、それを円滑に行うためのひとつの鍵でもあるが、同時に自己否定とナルシシズムという相反する感情の表出でもあると、私は考えている。 ■なぜ佐藤史生がスゴイと言われるのか その件に関しては、追悼文 id:lepantoh:20100408 にも記載した。24年組のすばらしさは、究極のバランス感覚にある。とことんエンターテイメントでありながら、純文学のような心理描写の匙加減。作者の趣味の世界と、社会に伝えたいメッセージの塩梅。心をくすぐられながら、無為に時間を過ごすのではなく、濃密で深い読書体験を味わう事が出来るのだ。 そこに石を投げ込んだ人が佐藤史生であり、だからこそ私は佐藤史生が好きなのであった。自身すらも切り裂く聡い自己批判の刃を持ちながら、台詞は極上の詩を吟じている。リズミカルな音符の中に、自分自身でも気づいていなかったような本音を察知して埋め込んでいるような作家だった。     少女マンガを語る上でこれを抜きには語れない24年組――そんな24年組についてのことです。

24年組(にじゅうよねんぐみ)は、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家達の一群を指す。「花の24年組」とも呼ばれる。年齢や作風において彼女らの後輩に当たる女性漫画家達は「ポスト24年組」と呼ばれている。 メンバー [編集] 24年組 青池保子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子、樹村みのり、ささやななえこ、山田ミネコ、増山法恵 ポスト24年組 水樹和佳、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子、佐藤史生、花郁悠紀子 1970年代初頭に、新しい感覚を持った女性漫画家達が次々と現れ、SFやファンタジー的要素や、同性愛の概念を導入したり、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、当時の少女漫画界の常識を覆していった。彼女らの生年がおよそ昭和24年前後であり、また「大泉サロン」での交流など相互に関係が深い事から、「24年組」の名で呼ばれるようになった。 主人公が少年である作品も生まれ、竹宮惠子や萩尾望都は、1970年代後半には少年誌にも連載を行った。24年組の多くは長期に渡って活動を続けており、萩尾や山岸凉子は2000年代に入ってからも漫画賞を受賞している。
まず、wikipedia日本版には便利なカテゴリがあります: http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e... 主要作家を生年ごとにまとめてあります(24年組だけ見ても、結構抜けがある不完全なリストですが)。 わたなべまさこ、牧美也子、水野英子さんたちと24年組の間は私も詳しくありませんが、米沢さんの優れた本があります: http://www.amazon.co.jp/dp/4480423583/ 70年代末に書かれ、80年代以降の華々しい歴史が抜け落ちているからこそ、西谷さんをはじめ、24年組の威光の陰で忘れられた(手塚治虫が「神」扱いされるようになった結果、それ以前のマンガの歴史が殆ど顧みられなくなったように)作家の良い情報源になると思います。米沢さんは24年組を高く評価しており、そういう評論家の眼鏡にかなった作家が並んでいるので安心して読めます。 ただし、60年代に活躍した少女マンガ作家たちが忘れられがちな理由のひとつとして、この時代には赤塚不二夫、楳図かずお、石森章太郎、ちばてつや、あすなひろしら、その後は専ら少年/成年マンガで活躍した男性作家たちが、優れた少女マンガを描いていたことも挙げられます。実際、24年組~ポスト24年組の同世代までは、柴田昌弘、弓月光、和田慎二、魔夜峰央をはじめ、結構な数の男性少女マンガ作家がいました。 24年組には作品傾向や人脈による選別がかかっており、彼女たちと同世代でも、矢代まさこ、里中満智子、大和和紀、一条ゆかり、山本鈴美香、いがらしゆみこ、庄司陽子、美内すずえのような有名作家もその中には入っていません。作風的にも違いがあり、こちらの人々(裏24年組?)の方が少女小説の流れを汲む「古いタイプ」であることは否定できないでしょう。 「ポスト24年組」は、24年組と親交があった後輩作家たちという程度の意味で、歴史的に重要という印象は受けません。同世代ではむしろ、りぼん誌のおとめちっくラブコメ作家たち(田淵由美子、陸奥A子、太刀掛秀子、小椋冬美、高橋由佳利…)の方が重要でしょう。壮大な歴史ものやSF&ファンタジーが多かった24年組の作家たちに対し、恋愛を中心とする日本の日常の機微を描いたのが彼女たちで、その後の少女マンガの主流は彼女たちから始まります。彼女たちを24年組の実験への保守反動と切り捨てる見方もありますが、この方向性を深めた先に、くらもちふさこ、清原なつの、岩館真理子が登場することを忘れてはいけません。 生年的には吉田秋生、槙村さとる、松苗あけみとくらもち、清原、岩館は変わらないのですが、吉田たちの方が世代はひとつ下という印象を受けます(「35年組」の先駆者という位置付け)。有吉京子は80年代に脚光を浴びましたが、実際には24年組と同世代に生まれた作家です。 (追記)[くらもち、清原、岩館]+[吉田、槙村、松苗] (1955~57年生まれ:「31年組」?) をひとつの世代とすると、「35年組」はその次の世代です。白泉社の作家(篠有紀子、佐々木倫子、明智抄を含む)に加えて、小学館の赤石路代、惣領冬実、川原由美子、渡辺多恵子、集英社のよしまさこ、池野恋、吉野朔実、多田かおるまで含めると、24年組表裏に匹敵する大所帯ですね 1970年代、「花の24年組」と呼ばれる女性漫画家達によって少女漫画界に革新が起こりました。 SF、ファンタジー、同性愛等の新しいエッセンスが加わり、少女漫画は大きく変容を遂げました。 その礎は、現代の漫画へ色濃く影響を残しています。 「24年組」の名作は、いつまでも色褪せません。 1970年代初頭、新しい感覚を持った女性漫画家達(竹宮惠子、萩尾望都など)が次々と現れ、SFやファンタジー的要素や、同性愛の概念を導入したり、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、当時の少女漫画界の常識を覆していった。 彼女らの生年がおよそ昭和24年前後であることなどから「24年組」の愛称で呼ばれるようになった。「花の24年組」とも呼ばれる。 少女漫画家版トキワ荘、大泉サロン。 それがあった時代1970年(昭和45年)以前・・・ つまり60年代の少女漫画はどういうモノだったのか? それはお涙頂戴の悲劇や、いかにも少女趣味な世界。 それ以外にはコミカルなギャグ的なモノくらいしかなく、 いずれにも共通しているのは、瞳にキラキラお星様がちりばめられた少女が主人公だという事。 少女漫画をよく知らない人や、世代が上の人は現在の少女漫画に対してもこれと同じイメージを抱いているかもしれません。 その現状を打破すべく、少年漫画にも負けない新しい革命的な少女漫画を描こうと立ち上がったのが、 その大泉サロンにいた漫画家たち。萩尾望都や竹宮惠子らいわゆる"花の24年組" そして、増山のりえ。 その彼女らの果たした功績を語ってみましょう。 当時の少女漫画の地位はかなり低く、少年漫画に比べて原稿料は安いモノでした。 (現在も安いってな話も聴きますが、未確認です) そして規制もかなり多かった様です。 (現在は現在で新しい規制も・・・) まず、少年を主人公にしてはいけなく、SFや時代モノはダメ。 キスシーンはOKだが、あくまでさりげなく・・・ 大泉サロンの面々はそんな現状を変えなくてはと日々話し合っていました。 描きたい作品を描くために、タブーをなくすために。 その為にはただの漫画好きの集まりでは意味がない。 増山を中心としたサロンのメンバーはサロンに出入りするメンバーを厳しく選定しました。 目に星が入ってたり、背中に花しょってたり、上半身しか描けない・・・ そんな人たちはメンバーからは除外したそうです。 「そういう人たちが少女漫画をダメにしてる!」とまで言っています。 近所に住んでる漫画家の先生にも彼女らが認めていない人ならば挨拶はしない。 そこまで徹底した態度でいたそうです。 編集サイドとの戦いもありました。 どうみても少年にしか見えない主人公を「これは少女です!」と言い張って載せたり、 原稿が落ちるギリギリを見計らって入稿したり・・・ ギリギリの駆け引きで少しずつ自分らの描きたい漫画を発表していきます。 ・・・さて、萩尾や竹宮の作品で思い浮かぶモノといえば やはりそれは"美少年"でしょう。 そういった美少年を題材にする様にすすめたのが、増山のりえだった様です。 もともと漫画だけでなく、ピアニストもめざしていた増山は、 ウィーン少年合唱団など、美少年や少年愛の世界に憧れをいだき、 萩尾や竹宮らにその魅力を伝えたのです。 その他、映画や本もすすめたりと、増山はサロンのリーダーとしてメンバーを牽引していたのです。 そして、サロンの集大成といえる漫画が誕生します。 それが竹宮惠子の「風と樹の詩」でした。 しかし、この作品は最初の50ページが完成したまま、掲載される事がありませんでした。 なにしろその内容はハードな少年愛モノです。 どの出版社も掲載を見送っていたのです。 竹宮はそれを載せる為にはまず、別の作品で人気をとり、 その雑誌のトップに立ち、自らが力をもった上で 「風と樹の詩」を載せるコトしかないと思い、そしてソレを実現させました。 「風と樹の詩」の連載が開始したのは1976年(昭和51年) その時には既にサロンは解散していました。 その後萩尾望都は「11人いる!」で 竹宮惠子は「地球(テラ)ヘ・・」で小学館漫画賞を受賞。 彼女らの戦いは勝利しました。 増山のりえはサロン解散後、芸大進学を望む両親と対立し、竹宮のもとに家出。 そしてそのままマネージャーとして裏方にまわります。 その一方で「変奏曲」シリーズの漫画原作者としても活躍。 後に小説家としてデビューしました。 ・・・と、書いてみましたが、何しろ私は少女漫画には疎いし、 大泉サロンについても資料が少ないので細かい所が合ってるのかわかりません。 ただ、1970~72年の間に、いわゆる団塊の世代の少女漫画家たちが、 大泉サロンというアパートにすんでいた事は確かです。 「まんが道」でのトキワ荘の様に、大泉サロンを舞台とした少女漫画家たちの奮闘記を物語にしたら、かなり面白い作品が出来ると思います。 サロンのリーダーであった増山のりえに書いてほしいと勝手に思っております。 今は昭和30年代ブームですが、いずれ高度成長後のこのサロンの存在した70年代の初期がブームになる時がくるかもしれないですし、何よりもトキワ荘と違って大泉サロンは女っ気があります。 と、いうかメンバーは全員女性です。 実写ドラマとかにしても、かなり華やかでいいと思いますがどうでしょうか? とにかくどんな形でも大泉サロンの事を詳しく触れた本が出たら読みたいモノです。 〈24年組〉は誰を指すのか? 朝日カルチャー:少女マンガの<24年組>とは何か? 先週土曜日4月2日、はるばる上京して少女マンガ研究家のヤマダトモコさんの朝日カルチャーの講座を聴きに新宿まで行ってきました。 本当は震災のあった3月11日の翌日が最初の予定でした。かなり前から友人達と予定を組んで、昼から落ち合って一緒にランチ食べて米澤記念図書館で吾妻ひでお展を見てその後行こうね~なんて久々のイベントをすっごく楽しみにしていたのにあの大地震ですべてキャンセルに。 でもそんなことはホントにささいなことだと土日に流れる震災の凄まじい被害状況を見たら私の予定が駄目になったことなんてどうでも良くなってしまったんでした。 が、とりあえず講座の予定は中止ではなく延期ということで、先週無事に講座も開かれ、最初の予定通り友人達とランチで落ち合い(しかも昼からビール!)、米澤に行き、講座を聴き、講座後はヤマダさんを囲んで夕食、ほぼ最初の予定通り楽しい一日となりました。 (それにしても最初の予定・3月12日当日は朝カルの担当者さん方は地震のために延期になったことを全員に連絡して回ったり、本当に大変だったことと思います。) コミックナタリーさんがこの講座のことを記事で取り上げておられたのもあって教室がほぼ満席状態。始まる前から何か聴く側のわくわく感が感じられました。見知った顔も多かったです。 教室にみえたヤマダさんに挨拶したらどことなく表情が硬く(あら、体調がまだお悪いのかな??)と心配してたのだけど後で聞いたら緊張感からだったということでした。 講座自体は準備も入念にされていたので非常にスムーズで、時々挟まれるヤマダさんならではの資料画像へのつっこみ(?)などにも随所で笑いが起き、会場はなごやか。 内容は、少女マンガ界で言われる「24年組」とはいったい誰を差すのかといった基本的なところから、「24年組」が成し得たことはなにか、与えた影響は?などなど。 ヤマダさんの研究家としての尊敬できる部分はともかく資料をあたってフラットな視点で切り込んでいくところです。どこか一方からの視点にならないように注意深く資料を読みこむ。そして整理する、分析する。 そこが素晴らしいと思います。研究家として基本なのかもしれませんが、意外に知らない内に偏った視点や分析をされる方もいます。が、ヤマダさんは常にフラットです。 配布された資料には『コミックボックス』(1998年4月号)に載った「まんが用語<24年組>は誰を指すのか?」もありました。これはヤマダさんが少女マンガ研究家として立って行くことになった最初の文章だったそうです。当時もいろんな人が漠然と<24年組>と使っていましたが、これは括られる漫画家さんがまちまちだったようです。それでも必ず入るのが萩尾さんと竹宮さん山岸さん大島さん…、そうしたことを資料画像を提示しながら説明が進んでいくのを皆熱心に聞き入っておりました。 研究されてる人の中にはたとえばボーイズラブの要素を最初に少女マンガに持ち込んだのは24年組だったという人もいるが、実はその前に水野英子さんの作品「ファイヤー!」があったりもするし、決して最初というわけではない、が、24年組作家の表現はそれぞれの作家によって非常に多種多様に渡り、画面構成なども独自の工夫を展開し、コマ構成も非常に複雑化していってる。愛の形も様々なものを物語として描きだしたことが、後進の作家達に与えた影響が大きかったと言える。・・・そうしたことを順序立てて説明下さると、こちらも(うんうんそうだなそうだな)と非常に納得できるものがありました。 例えば24年組の彼女らが影響を受けた作家として少年漫画の大御所・手塚、石ノ森の名前だけをすぐに取り上げてしまいがちだが、本当は彼女らはもっとたくさんの作家の名前(水野英子、矢代まさこなど)を挙げているのに、そうした名前はインタビュー記事の文字数の制約などもあって割愛されたりする。そういうことで大御所の名前しか研究の中で残っていかない傾向があるが、本来の現場ではもっと多くの作家達の先駆があった。24年組を語る内容でもそれと同じようなことが起きていて、24年組作家以外でも少女マンガ史に残る最初の試みをしていたりする作家はいただろうに、埋もれていたりなどもあるだろう…といったことなど… ここでは紹介しきれないですが、非常に興味深い内容で時間があっという間でした。 実は「図書の家」で講座に使う画像の準備を少しお手伝いしたのでしたが、実際に講座に使われるのをみると、なるほど、この説明のためにこのシーンだったか!という感じで面白かったです。 来ていた方の質問コーナーで「当時の雑誌にはいろんな作風の方達が同時に掲載されていたわけで、そうした雑誌からの切り口も是非今度」など要望があったりして、私も是非そういう内容も聞いてみたいと思ったりしました。 少女マンガ研究家としてのヤマダさんの本格的な著書を是非望む者でもあります。 来ていた人達の中でヤマダさんを囲んで近くのファミレスで夕食会、大人数で非常に和気あいあいと楽しい席でした。その後、私と「図書の家」主宰の小西さんとヤマダさんは同じホテルに宿泊予約していたので一緒に向かいました。夜はもう遅かったのですぐに部屋に分かれて就寝したのでしたが、翌朝は朝食からチェックアウトまで3人で延々マンガ話を(笑) 私はその後は帰路に着きましたが、小西さんはその後お昼くらいまでヤマダさんとさらに延々話したそうです。いずれにせよ本当に良い講座を聴かせてもらって、出かけて行った甲斐がありましたv またこういう機会があったら是非出かけて行きたいですし、興味のある向きには是非聴いて頂きたいです。